バー弓子

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『突き付けられた孤独と怒り』

「MUSHI-KERA」 批評文

執筆:亀田 恵子

「みんなといっしょでありたい」「同じでありたい」そう願っても、ままならないことがある。その理由さえ見つけることが出来なくて、ただ仲間から外れていく自分を止められないことがある。自分の意思と関係なく外されることだってあるかも知れない。そんなとき、人は疎外感と孤独感の中で悲しくなる。単純な図式、ありふれた事実。頭で分かっていても、それは悔しさを生み、やがて怒りに変化する……。南弓子の『MUSHI-KERA』は、こぼれ落ちた者の怒りが、挑発になり、ダンスになっていた。

暗転の舞台。ジャズの調べのようなサウンドが響いてくる。漂うメロディの中から徐々に切り立ってくるトランペットの音は、大音量で耳に痛いほどのボリュームだ。思わず耳を手でおいたくなる音の痛さ。やがて静まるトランペットにホッとするのも束の間、音は再び大音量になる直前のメロディに戻る。先ほどのボリュームがくり返されるという予感は、客席に座っている者にとっては、今からそれに耐えなければならないということでもある。私は苛立った。  暗闇の中、舞台中央に置かれたイスに南弓子が浮かび上がる。露になった白い足は、あぐらを組んで両ヒザを前に突き出したような格好をし、両腕は後ろ手に回されている。頭には時代がかった古風な学生帽をかぶり、うなだれている。いかめしい風貌の学生帽に対して上半身は、ピッチリと身体にまとわりつくような白の長袖シャツ。ギュッと寄せられたギャザーにボタンが今にも弾けてしまいそうだ。その姿は静かにイスに座っているというより、何かに拘束され、半ば強制的にそうさせられているかのようにも見える。白眼を剥いて座っているだけのシーンであるが、そのジワジワと動かされる首の動きには、抑えつけている何かに逆らうような緊迫感があった。

舞台正面から投影されるプロジェクターから、元学校であった京都芸術センター(この公演が行われている会場)の廊下や教室が映し出されていく。誰もいないモノトーンな景色の中、南のシルエットが景色の中に黒く抜かれてポカリと穴を開けているのだが、それが映像の虚ろさを強調している。ゆらゆらと、古い記憶や悪い夢の中をさまようような感覚は、南自身の過去を呼びだしている時間なのかも知れない。作品中では“学校”に関連した小道具がいくつか登場し、南がこの“元学校” という場所から作品を立ち上げようとしていることがわかる。冒頭とラストシーンでは天井から上履きが(冒頭は片方だけ、ラストは大量に)落ちてくるし、学生帽にしてもそうだ。ラストシーンの少し手前では、卒業アルバムの学級写真を思い起こす生徒の顔の並ぶ映像が使用されている。だが共通なのは、子供たちが笑顔で駆けまわるようなイメージはそこにはないということ。不自由さと不穏な空気、抑圧された力の集積、苛立ち。そうした感覚・感情が、イスに座って白眼をむく南の表情や、立ったま客席の向こうをジッと睨みつける視線から感じられるのみだ。冒頭シーンに続く暗転の中では、舞台左手に置かれたスクール机を乱暴に叩き、床に突き倒す音が客席に響いた。幕開けの大音量のトランペットといい、机を叩き、突き倒す音とい、突然落ちてくる上履きが床とぶつかる音といい、これらの音たちは非常に暴力的だ。耳にふれる音がトゲトゲしていて、痛い。怒り、凶暴さ、そうしたエネルギーを音にして観客に向けているのだろう。もしかすると南は挑発に よって、観客にも怒りを感じさせようとしているのではないだろうか。挑発が相手を自分と同じ土俵に引っぱりあげることだとしたら、南は観客に自分が踊りに駆り立てられている感覚を伝えるために、暴力的な音や睨みつけるような視線を使っているのかも知れない。

しかし、南の『MUSHI-KERA』には、怒りだけが恨み節のように並んだわけではない。中盤、右から左へと舞台背面に映し出される「つまみ上げようとする形の手」の映像に追われるシーンでは、映像の動きに合わせて自身も左から右へ徐々に移動するという動き方をする。ここに、彼女が追い詰められていく感覚を覚える。やがて増殖した手の映像は画面いっぱいになるのだが、南もまたその映像を身体に映し込んでいく。追われ、囚われ、どうすることも出来ない中でさえ踊り続ける姿。それは、とても切ない。  学校をはじめとする社会システムの中に、私たちは生きている。そのシステムは集団のため(集団をまとめる者のため)にプログラムされたもの。だから当然こぼれ落ちてしまう者もいる。それは、今にはじまったことではなく、ずっと以前から連めんと続いていることなのだろう。こぼれ落ちた者たちの孤独・疎外感は声にならないまま、場に沈殿して代弁者がやってくるのを待っているのだ。京都芸術センターという場で作品創作をスタートした南は「声にならない声=場の記憶」から、自身の記憶を呼び戻し、現在の自分に取り込んでいった。

後半、客席に背を向けて座るシーン(時間的な配分でみると、かなりこの場面に時間をかけているように感じた)。静かにじっと背を向けている時間が流れた後、ふっと観客席をふりむく南。じっと見る視線は、さっきまでの怒りをたたえた視線ではない。何かを問うような、諦めきれない何かを気にしているような、そんな視線だ。怒りの奥にある「みんなと同じでありたい」という断ち切れない想い。客席を何度もふり向く仕草からは、怒りと反抗を抱きつつ、みんなのいる場所が気になる孤独さが伝わってくる。  「ふり返る」「じっと客席を見る」「背を向ける」、この動きは何度かくり返され、1つのフレーズの中に段々と「手をふりあげる」「回転して戻る」などの違う動きが差し込まれていく。差し込まれた動きは、次第に過剰になっていき、自分の意思なのか、そうでなく他の何かに動かされているのがわからない動きへと変わっていく。例えば、座った姿勢から、ピョンと唐突に投げ出された片足が上下に動かされたときなどがそうだ。はじめはやわらかく床をなでるように上下されていた足。それがやがてバンバンと床を激しく叩きつけるような動きへと変わっていった。

作品全体が持っている「雰囲気」というものがある。この作品でいえば、じわじわと浮かび上がってくる不穏な空気であるとか、ぎゅっと締めつけられているような窮屈さに拮抗する力だろうか。それはおそらく南の持つ集中力が大きい。作品中、シーンが次へと移り変わるとき(境界のようなもの)ダンサーの中には次のアクションに意識が移って集中力が途切れたような印象を観客に与えてしまう者もいる。しかし彼女には、そうしたエネルギーが薄くなる印象を感じない。  また、この怒りを感じるときの集中力は、相手ではなく、「今、この瞬間の自分」の身体へと向けられるという独自な集中の仕方をしているのではないだろうか。自分の中に映し出されるものをジッと見つめると同時に、身体は振付けられた時間軸に沿って踊っていく。自分の内と外とのバランス感覚が、彼女の動きに強度を与えているのだ。

私たちは、この社会で生きていく限り、さまざまなシステムの中に組み込まれていくのだろう。ままならない感覚を覚えながらも、想いをその身に沈殿させていくしかない。そして、いつかこぼれ落ちた自分を感じて、怒りや孤独に苦しむ。それはもしかしたら避けられないことかも知れない。しかし、本当にそれで良いのだろうか。「怒り」がやがて老いともに「諦め」や「絶望」に変わるまで待てばいのだろうか。「その生き苦しさに、いつまで耐えていくつもりなのか?」南の踊る姿が、鋭い問いかけを私に突きつける。

耳を突き刺すような痛々しい音からはじまった『MUSHI-KERA』。しかし最後には静かな無音で幕を閉じる。作品の一部始終は、「場の記憶=声にならない声」、そして「彼女自身の中にある怒り」をも、「踊ること」で鎮めていった過程のように思う。また、シャーマニックな浄化作用がダンスにはあるのだと気付かされた過程でもあった。トランス状態など特異な身体状態(それは「舞踊」に近接する身体)の中で、目に見えない存在と交渉し、病の人々=弱者であり、集団生活からこぼれ落ちた者らを癒す「シャーマン」・・・現代では、非科学的な存在として、彼ら自身がシステムからこぼれ落ちた者でもあるが、そこに南の踊る姿が重なって見えるのだった。  ラスト、天井から大量の上靴が落下し、頭を床に置いて三点倒立した南。隠されていた複数の靴の登場は、場に眠っていた記憶たちが南のダンスの中で結晶になったものなのだろう。南自身が倒立して物質のように起立する姿も、1本の柱のように見えた。まるで「道標」のような柱だ。

南弓子『MUSHI-KERA』2008年1月19日、京都芸術センター

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